2018年10月16日火曜日

戦国時代のおもな出来事と真田一族の動向まとめ(1)

皆様こんにちは!


大変お待たせしましたが、戦国時代のおもな出来事と真田一族の動向を年表形式で投稿させて頂きます。


まずはパート1としまして、戦国時代の端緒を切ったと言われる応仁の乱の勃発から、真田幸隆が初めて本格的な戦(しかも完璧な負け戦)を経験したとされる海野平合戦を経て、武田信玄の家臣になるまでの約80年間の経緯をご覧下さい。
(リンク先はすべてウィキペディアです)




西暦和暦場所おもな出来事
1467応仁15山城国応仁の乱が勃発、畠山氏と斯波氏の家督争いから始まった戦乱が全国に拡大する
1477文明911山城国応仁の乱が終結
1486文明187相模国江戸城主の太田道灌が主君の上杉定正に謀殺される
1493明応24山城国細川政元がクーデターを起こし、室町幕府将軍を足利義材から義澄に差し替え、実権を握る
明応の政変
4伊豆国北条早雲が明応の政変に乗じて伊豆へ侵攻し、前将軍派の足利茶々丸を追放する(伊豆討入り)
1495明応49相模国北条早雲が小田原城を本拠とする
1508永正510甲斐国推定年齢11~14歳の武田信虎(信玄の父)叔父の油川信恵と家督を争い、圧勝する(坊峰合戦
1510永正7信濃国真田綱吉(幸隆の兄)が生まれる
1513永正10信濃国真田幸隆(文献では幸綱)が生まれる
1516永正137相模国北条早雲が相模国を平定する
1518永正15信濃国真田頼綱(幸隆の弟)が生まれる
1519永正16駿河国今川義元が生まれる
1521大永111甲斐国武田信玄が生まれる
1523大永38安芸国毛利元就が毛利家を継ぐ
  11相模国里見義堯が鎌倉へ侵攻する
1527大永78美濃国斎藤道三が守護の土岐頼武を越前国に追放する
1528享禄112周防国大内義隆、が大内家を継ぐ 
1530享禄31越後国上杉謙信が生まれる
  6三河国岡崎城主の松平清康(家康の祖父)が家臣の阿部正豊に暗殺される(森山崩れ)
1532天文17陸奥国 陸奥守護職の伊達植宗と子の晴宗の間で内紛が勃発 (天文の乱
?尾張国織田信秀(信長の父)、那古野城を奪い居城にする
1534天文35尾張国織田信長が生まれる
1536天文56駿河国花倉の乱で今川義元が勝利する
  7山城国天文法華の乱が勃発
1537天文6
5
信濃国
尾張国
真田信綱(幸隆の長男)が生まれる
豊臣秀吉が生まれる
  8山城国細川晴元が畿内を平定する
1538天文710下総国国府台合戦で北条氏綱が里見家に勝利する
1541天文101信濃国武田信虎が村上義清諏訪頼重らと小県郡・佐久郡へ侵攻する
  5信濃国海野家当主の棟綱が武田信虎連合軍に敗れ、真田幸隆がとともに上野国箕輪城へ逃れる(海野平合戦
  6甲斐国武田信玄が父の武田信虎を駿河国に追放し、当主になる
  7
信濃国
海野棟綱、真田幸隆らの要請により関東管領・上杉憲政が形式的な出兵を行ったが、戦の前に諏訪氏と和睦を結んで引き返したため旧領奪還ならず
1542天文118美濃国斎藤道三が主君の土岐頼芸を追放する(大桑城の戦
1543天文128薩摩国
種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来する
  11信濃国
真田昌輝(幸隆の次男)が生まれる
  三河国徳川家康が生まれる
1544天文13甲斐国真田幸隆が武田信玄の招きに応じ、直臣に下る


こうしてまとめてみますと、幸隆さんがまさに激動の時代の真っただ中に生を受けて、いやが応でも戦乱の渦に巻き込まれざるを得なかった状況がよく判りますね。


それと、武田家の動向に目を向けますと、もしも海野家を実質的に滅ぼした信虎さんが信玄さんの乱を抑え込んで実権を握り続けていたら、おそらく幸隆さんを武田家に迎え入れることはあり得なかったでしょうし、本人も絶対に望まなかったことでしょう。


それどころか、武田や村上に無謀な弔い合戦を挑んで自滅していたか、刺客を送られて無残な最期を迎えるなどして、その後の歴史に真田という名前がまったく残されなかった可能性もあったと思われますので、私自身はこの年表からあらためて信玄さんの存在の大きさを認識できたような気がしますが、皆様はどんなことを読み取られますか?

2018年10月9日火曜日

真田幸隆から4代の系譜まとめ

皆様こんにちは!


今回が2回目の記事投稿となりますが、真田一族の活躍が具体的な記録として残されているのは幸隆さん以降であることに間違いありませんので、これから個々のエピソードをじっくりご紹介させて頂く前に、幸隆さんを仮の1代目としまして、4代目までの一族の系譜、血脈を一気にまとめてみたいと思います。



<1代目>
真田幸隆
・1513年(永正10年)~1574年(天正2年) 享年61歳
・兄弟 : 綱吉、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重
・正室:恭雲院(河原隆正の妹)
・側室:羽尾幸全の娘





<2代目>
真田昌幸
・1547年(天文16年)~1611年(慶長16年) 享年64歳
・兄弟 : 信綱、昌輝、信尹、金井高勝、清鏡、娘3人
・正室 : 山手殿(寒松院殿)


※ここでは昌幸さんをメインとしていますが、信綱さん、昌輝さんら他の兄弟の活躍についても、あらためてご紹介させて頂く予定です。



<3代目>


真田信幸(信之)
・1566年(永禄9年)~1658年(明暦4年) 享年91歳
・兄弟 : 信繁、昌親、信勝、娘7人
・正室 : 小松姫(本多忠勝の娘)
・側室 : 清音院殿(真田信綱の娘、元の正室)
・側室 : 右京(玉川秀政の娘)





真田信繁(幸村)
・1567年(永禄10年)~1615年(慶長20年) 享年49歳
・正室:竹林院(大谷吉継の娘)
・側室:隆清院(豊臣秀次の娘)
・側室:堀田興重の娘または妹
・側室:高梨内記の娘






<4代目>


・信幸の子 : 信吉、信政、信重、道鏡慧端、娘2人
・信繁の子 : 幸昌、守信、幸信、娘7人



こうしてまとめてみますと、いずれの代もしっかり子宝に恵まれており、しかも戦死者を除くといずれの兄弟も当時としては長命だったようですので、真田一族と言うとついつい生き残りの為の戦略や戦術などの知的能力ばかりに目を向けがちですが、より根源的、本能的な生命力や生殖力においても優れた一族であったことがあらためてよく判りますね。

(もちろん、これは家康をはじめ乱世を生き抜いた大名家共通の存続条件とも言えますが。)

さて次は、真田一族の活躍した時代のおもな年表をまとめてみたいと思いますが、こちらは少々時間がかかりますので、あらためて更新させて頂きたい所存です。






2018年10月6日土曜日

真田一族の起源、出自説まとめ

皆様こんにちは!
いよいよこれから記事の投稿を開始させて頂きますが、
まずは真田一族の起源、出自に関する代表的な2つの説を取り上げてみたいと思います。

(1)海野(うんの)氏出自説

平安時代中期より鎌倉、室町時代に至る永きに渡って信濃国(現・長野県)東部を実質支配していた武家の名門、海野氏の当主、海野棟綱の次男として永正10年(1513年)に生まれた幸隆(文献では幸綱)が、小県(ちいさがた)郡真田郷(現・長野県上田市真田町)に定着した後、初めて真田姓を名乗るに至ったとする説。
海野氏発祥の地を記す石碑(長野県東御市)

これはいかにも「由緒正しい血統」を主張している良い例ではないかと思われます。
江戸時代以降、真田家自ら幕府に提出した系図や一族の活躍を取り上げた物語の多くが採用し、現代に至るまで最もよく知られている説ではありますが、実はこの説を裏付ける幸隆生存当時の記録文献は何も見つかっていないそうです。


ついでを申しますと、そもそも海野氏の出自につきましても、奈良時代から続く滋野(しげのう)氏という古い豪族の系統であったことはほぼ間違いないようですが、真田家でもそっくり踏襲していた清和天皇の第4皇子を起源とする系図につきましては客観的根拠が見つかっておらず、残念ながら疑問符がついているようですね。


※海野氏につきましては、地元の研究者がかなり詳しく調査しておられますので、ご興味がおありの方はぜひお読みになってください!

「海野史研究 郷土の歴史」

まあ、こういうお話は海野氏や真田氏に限ったものではなく、特に戦国大名や武将達の出自がいかに胡散臭いものであったかについては面白い話が色々残っていますので、またあらためて取り上げてみたいと思っています。

それでは、もう一つの説に進みましょう。

(2)小県(ちいさがた)土着豪族説

海野氏が信濃国を治める以前より、真田氏は小県(ちいさがた)土着の弱小豪族として細々と存続していたが、信濃国内での戦乱が本格化した室町時代後半、当主の真田頼昌が海野氏と縁戚関係を結んで家格を引き上げるとともに、ちゃっかり所領の真田郷を安堵してもらった、またはその後に拝領して海野氏の血を継いだ幸隆に家督を譲ったとする説。




※真田頼昌自身、もともと海野氏の庶流であったとする説もあります。

実は、幸隆さん以前にもこの地域に真田姓が存在していた事実は15世紀の合戦記録にも残されており、戦乱時に迷わず当時の勝馬に乗ったあたりが、後々顕著となる「存続の為には手段を選ばず」という真田一族の家風ともぴったり一致する現実的な説と言えるのではないでしょうか. . .?

事実、こうして由緒ある海野氏の血を継いで大切に育てられたはずの幸隆さんでしたが、旗色が悪くなった途端に敵方の武田氏に寝返ったばかりか、ちゃっかり武田二十四将という大幹部に成り上がったわけですから、これはもう「血は争えない」という話の分かりやすい実例ではないかと思われますが、皆様はどちらの説を支持されますか. . .?



真田 幸隆(海野 幸綱)の肖像画




ただし、仮に土着豪族説が正しかったとしましても、その起源が大和朝廷から追われたヤマトタケルノミコトであったとか、大豪族の大伴氏の一族であったとか、百済から亡命した王家の末裔であったなど、伝説のような話が今も残されているようですが、そこまで行きますと、結局は1つ目の説と同様、箔をつけるための言ったもん勝ちの世界になってしまいますので、真田氏の起源につきましては今のところ不詳・不明という結論とさせて頂きます。



もし上記でご紹介させて頂いた2説以外にそれなりの根拠を持つ出自説(ご自身の推論でも構いません)があるようでしたら、ぜひぜひご教示を頂けると有難いと思っております。

それでは、今回はこれにて失礼いたします。

※投降した記事は必要に応じて更新または削除させて頂く場合がございますので、あらかじめご了承下さいませ。
また、皆様からのコメントは歓迎いたしますが、管理人が不適切と判断させて頂いた内容につきましては、ご本人様の了解を得ずに直ちに削除させて頂く場合がございますので、あらかじめご了承下さいませ。m(_ _)m


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ブログ開設のごあいさつ

皆様はじめまして!

このブログでは戦国時代に大活躍した真田一族につきまして、興味本位で調べてみたことをまとめ形式で順次アップさせて頂きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

なお、管理人は歴史学者や専門家ではなく、ただの歴史好き人間にすぎませんので、何とぞお手柔らかにお付き合い下さいますよう、あらかじめお願い申し上げます。m(_ _)m

また、「真田ファンクラブ」というブログ名称につきましては、現時点で確認した限りではありますが、意外なことにずばり重複する団体やサイトの存在は見当たりませんでしたので、何か具体的な問題が発生しない限りはこの名称の専有権を行使させて頂きまして、本当に真田一族のファンの皆様との楽しい交流が図れるようなオープンスペースを目指していきたい所存です。
(もちろん、これでお金を頂戴するような謀略はございませんので、どうぞご安心くださいませー^^)

それでは、今後ともよろしくお願い致します。

管理人 さなだけん

<English Information>
This is a fan site of the Samurai Worriors " Sanada Family " in the middle age of Japan.
If you are interested in Japanese history or Samurai Worriors please bookmark this blog, thank you.

Sanada Ken