いよいよこれから記事の投稿を開始させて頂きますが、
まずは真田一族の起源、出自に関する代表的な2つの説を取り上げてみたいと思います。
(1)海野(うんの)氏出自説
平安時代中期より鎌倉、室町時代に至る永きに渡って信濃国(現・長野県)東部を実質支配していた武家の名門、海野氏の当主、海野棟綱の次男として永正10年(1513年)に生まれた幸隆(文献では幸綱)が、小県(ちいさがた)郡真田郷(現・長野県上田市真田町)に定着した後、初めて真田姓を名乗るに至ったとする説。
海野氏発祥の地を記す石碑(長野県東御市) |
これはいかにも「由緒正しい血統」を主張している良い例ではないかと思われます。
江戸時代以降、真田家自ら幕府に提出した系図や一族の活躍を取り上げた物語の多くが採用し、現代に至るまで最もよく知られている説ではありますが、実はこの説を裏付ける幸隆生存当時の記録文献は何も見つかっていないそうです。
ついでを申しますと、そもそも海野氏の出自につきましても、奈良時代から続く滋野(しげのう)氏という古い豪族の系統であったことはほぼ間違いないようですが、真田家でもそっくり踏襲していた清和天皇の第4皇子を起源とする系図につきましては客観的根拠が見つかっておらず、残念ながら疑問符がついているようですね。
※海野氏につきましては、地元の研究者がかなり詳しく調査しておられますので、ご興味がおありの方はぜひお読みになってください!
「海野史研究 郷土の歴史」
まあ、こういうお話は海野氏や真田氏に限ったものではなく、特に戦国大名や武将達の出自がいかに胡散臭いものであったかについては面白い話が色々残っていますので、またあらためて取り上げてみたいと思っています。
それでは、もう一つの説に進みましょう。
(2)小県(ちいさがた)土着豪族説
海野氏が信濃国を治める以前より、真田氏は小県(ちいさがた)土着の弱小豪族として細々と存続していたが、信濃国内での戦乱が本格化した室町時代後半、当主の真田頼昌が海野氏と縁戚関係を結んで家格を引き上げるとともに、ちゃっかり所領の真田郷を安堵してもらった、またはその後に拝領して海野氏の血を継いだ幸隆に家督を譲ったとする説。
※真田頼昌自身、もともと海野氏の庶流であったとする説もあります。
実は、幸隆さん以前にもこの地域に真田姓が存在していた事実は15世紀の合戦記録にも残されており、戦乱時に迷わず当時の勝馬に乗ったあたりが、後々顕著となる「存続の為には手段を選ばず」という真田一族の家風ともぴったり一致する現実的な説と言えるのではないでしょうか. . .?
事実、こうして由緒ある海野氏の血を継いで大切に育てられたはずの幸隆さんでしたが、旗色が悪くなった途端に敵方の武田氏に寝返ったばかりか、ちゃっかり武田二十四将という大幹部に成り上がったわけですから、これはもう「血は争えない」という話の分かりやすい実例ではないかと思われますが、皆様はどちらの説を支持されますか. . .?
真田 幸隆(海野 幸綱)の肖像画 |
ただし、仮に土着豪族説が正しかったとしましても、その起源が大和朝廷から追われたヤマトタケルノミコトであったとか、大豪族の大伴氏の一族であったとか、百済から亡命した王家の末裔であったなど、伝説のような話が今も残されているようですが、そこまで行きますと、結局は1つ目の説と同様、箔をつけるための言ったもん勝ちの世界になってしまいますので、真田氏の起源につきましては今のところ不詳・不明という結論とさせて頂きます。
もし上記でご紹介させて頂いた2説以外にそれなりの根拠を持つ出自説(ご自身の推論でも構いません)があるようでしたら、ぜひぜひご教示を頂けると有難いと思っております。
それでは、今回はこれにて失礼いたします。
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