大変お待たせしましたが、戦国時代のおもな出来事と真田一族の動向を年表形式で投稿させて頂きます。
まずはパート1としまして、戦国時代の端緒を切ったと言われる応仁の乱の勃発から、真田幸隆が初めて本格的な戦(しかも完璧な負け戦)を経験したとされる海野平合戦を経て、武田信玄の家臣になるまでの約80年間の経緯をご覧下さい。
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西暦 | 和暦 | 月 | 場所 | おもな出来事 |
1467 | 応仁1 | 5 | 山城国 | 応仁の乱が勃発、畠山氏と斯波氏の家督争いから始まった戦乱が全国に拡大する |
1477 | 文明9 | 11 | 山城国 | 応仁の乱が終結 |
1486 | 文明18 | 7 | 相模国 | 江戸城主の太田道灌が主君の上杉定正に謀殺される |
1493 | 明応2 | 4 | 山城国 | 細川政元がクーデターを起こし、室町幕府将軍を足利義材から義澄に差し替え、実権を握る (明応の政変) |
4 | 伊豆国 | 北条早雲が明応の政変に乗じて伊豆へ侵攻し、前将軍派の足利茶々丸を追放する(伊豆討入り) | ||
1495 | 明応4 | 9 | 相模国 | 北条早雲が小田原城を本拠とする |
1508 | 永正5 | 10 | 甲斐国 | 推定年齢11~14歳の武田信虎(信玄の父)叔父の油川信恵と家督を争い、圧勝する(坊峰合戦) |
1510 | 永正7 | ? | 信濃国 | 真田綱吉(幸隆の兄)が生まれる |
1513 | 永正10 | ? | 信濃国 | 真田幸隆(文献では幸綱)が生まれる |
1516 | 永正13 | 7 | 相模国 | 北条早雲が相模国を平定する |
1518 | 永正15 | ? | 信濃国 | 真田頼綱(幸隆の弟)が生まれる |
1519 | 永正16 | ? | 駿河国 | 今川義元が生まれる |
1521 | 大永1 | 11 | 甲斐国 | 武田信玄が生まれる |
1523 | 大永3 | 8 | 安芸国 | 毛利元就が毛利家を継ぐ |
11 | 相模国 | 里見義堯が鎌倉へ侵攻する | ||
1527 | 大永7 | 8 | 美濃国 | 斎藤道三が守護の土岐頼武を越前国に追放する |
1528 | 享禄1 | 12 | 周防国 | 大内義隆、が大内家を継ぐ |
1530 | 享禄3 | 1 | 越後国 | 上杉謙信が生まれる |
6 | 三河国 | 岡崎城主の松平清康(家康の祖父)が家臣の阿部正豊に暗殺される(森山崩れ) | ||
1532 | 天文1 | 7 | 陸奥国 | 陸奥守護職の伊達植宗と子の晴宗の間で内紛が勃発 (天文の乱) |
? | 尾張国 | 織田信秀(信長の父)、那古野城を奪い居城にする | ||
1534 | 天文3 | 5 | 尾張国 | 織田信長が生まれる |
1536 | 天文5 | 6 | 駿河国 | 花倉の乱で今川義元が勝利する |
7 | 山城国 | 天文法華の乱が勃発 | ||
1537 | 天文6 | ? 5 | 信濃国 尾張国 | 真田信綱(幸隆の長男)が生まれる 豊臣秀吉が生まれる |
8 | 山城国 | 細川晴元が畿内を平定する | ||
1538 | 天文7 | 10 | 下総国 | 国府台合戦で北条氏綱が里見家に勝利する |
1541 | 天文10 | 1 | 信濃国 | 武田信虎が村上義清、諏訪頼重らと小県郡・佐久郡へ侵攻する |
5 | 信濃国 | 海野家当主の棟綱が武田信虎連合軍に敗れ、真田幸隆がとともに上野国箕輪城へ逃れる(海野平合戦) | ||
6 | 甲斐国 | 武田信玄が父の武田信虎を駿河国に追放し、当主になる | ||
7 |
信濃国
| 海野棟綱、真田幸隆らの要請により関東管領・上杉憲政が形式的な出兵を行ったが、戦の前に諏訪氏と和睦を結んで引き返したため旧領奪還ならず | ||
1542 | 天文11 | 8 | 美濃国 | 斎藤道三が主君の土岐頼芸を追放する(大桑城の戦) |
1543 | 天文12 | 8 | 薩摩国 | 種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来する |
11 | 信濃国 | 真田昌輝(幸隆の次男)が生まれる | ||
? | 三河国 | 徳川家康が生まれる | ||
1544 | 天文13 | ? | 甲斐国 | 真田幸隆が武田信玄の招きに応じ、直臣に下る |
こうしてまとめてみますと、幸隆さんがまさに激動の時代の真っただ中に生を受けて、いやが応でも戦乱の渦に巻き込まれざるを得なかった状況がよく判りますね。
それと、武田家の動向に目を向けますと、もしも海野家を実質的に滅ぼした信虎さんが信玄さんの乱を抑え込んで実権を握り続けていたら、おそらく幸隆さんを武田家に迎え入れることはあり得なかったでしょうし、本人も絶対に望まなかったことでしょう。
それどころか、武田や村上に無謀な弔い合戦を挑んで自滅していたか、刺客を送られて無残な最期を迎えるなどして、その後の歴史に真田という名前がまったく残されなかった可能性もあったと思われますので、私自身はこの年表からあらためて信玄さんの存在の大きさを認識できたような気がしますが、皆様はどんなことを読み取られますか?